人生の後半について考えたとき、何か打ち込めるものがある人はきっと幸せだろうなと思った。
人生の前半は、自分の「生活」を作り上げていく旅だ。
人生の後半は、「生活」を味わう旅だ。
その、後半。
人生を折り返して手にした、日々を咀嚼する時間。そのときに、ただただ緩慢と時分をやり過ごしていくだけなのは酷く虚しい気がする。せっかく日々を味わうゆとりを得たというのに、その味わい方がわからないのは、とても勿体ないし味気なくつまらない。苦労して手に入れた玩具の遊び方を知らないことのようだ。
それに比べて何か没頭できるものを持っている人はどうだ。咀嚼する日々は味わい深く、それだけにとどまらず、そこで得た知識はまたさらなる血肉とさえなる。
これから人生の終末に向かって歩いていくという道すがら、その旅の心持ちは雲泥の差だ。
べつに人生の後半に限ったことではない。どの年代でも没頭できる趣味がある人は幸福だ。何かに、特に好きなことに集中している時間は、その人の思考はそれ以外の煩わしさから解放されている。日常の縛りから解き放たれて、思考は、宇宙の広がりのように無限に広がっている。
たとえその人に“幸せ”という自覚がなかったとしても、脳はある種の幸福感を得られているように思う。
趣味や生きがいがある人が、そうでない人から見たらキラキラと輝いているように見えるのは当然のことだ。
没頭できるものは趣味に限らない。家族やペットだって同じことだ。それらのために頭や体を動かすことを苦と思わず、また、そうすることで新たな活力が湧いてくるという人は多いにいる。それはもう、十分にその人の生きがいとなっている。
ライフワークを見つけたい。そこまで大げさなものでなくても、長年続けられるような、没頭できる趣味があれば素敵だ。
40歳を過ぎて人生の後半を強く意識したとき、そう強く思った。
これまで趣味が全くなかったわけではない。というよりもむしろ、好きなことはいろいろとある。読書、アニメ、登山、園芸、音楽鑑賞、紅茶、外国語、マラソン、などなど。挙げればキリがないし、どれも現在進行形とも言えなくもない。じゃあそれで良いではないかとつっこまれそうだが、しかし私的にはどれも決定的に中途半端なのだ。
確かに、それをやっているときは没頭している。本を読めばすぐにその世界の登場人物となり冒険が始まるし、自然に触れれば途端に思考は目の前の葉一枚の細胞から宇宙へと巡りだす。とても楽しい。とても楽しいのだが、自分からそれに手を伸ばすことが決して多くはない。最近は「与えられたらやる」というスタンスだ。平日の夜や休日など、時間が空いたときに自らそれらをやろうという気分になかなかなれないのである。果たしてそれは趣味と言えるのだろうか?
私の理想とする趣味は、もっと能動的なものだ。やりたいと、自ら手を伸ばすものだ。誰かに誘われるのを待っているのは趣味ではない気がする。待っているだけでは、それに没頭する時間など永遠に来ないかもしれないのだから。
ライフワークを見つけたい。
私は今、45歳だ。人生の折り返し地点にきている。始めるのが遅すぎた、という年齢はとうに過ぎた。つまり、もはやいつ始めても遅すぎるということはない、ということだ。
いろんなものに手を出してみようと思う。同時に、これまでやってきたことも検証してみよう。結果、ライフワーク探しがライフワークになってしまうかもしれないけれども。
楽しく老いたいというのは贅沢な目標だ。
けれども、誰もが思っていることだとも、思う。